さちこの部屋(142)

「母、Y子」〜その7〜


 ある時、知人とそのお母さん、私と姉の4人で雑談をしていたところ、知人のお母さんからこんな話しを聞いた。

 お母さんの友人の旦那さんが自宅で昼寝をしていたのだが、いつまで経っても起きてこないので奥さんが起こしに行ったところ、既にお亡くなりになっていたそうだ。

 それを聞いた知人と姉と私は「羨ましい…!」とため息混じりに3人同時につぶやいた。

 残された奥さんの方が心臓の持病があり、お亡くなりになった旦那さんは持病もなく健康そのものだったそうだ。

 これが「寿命」ということなのだろう。

 これぞ正に「ピンピンコロリ」。

 人がお亡くなりになった話しを聞いて「羨ましい」などと不謹慎かもしれないが、長年闘病で苦しんで…とか、うちの母のように認知症になって…とかを考えると、亡くなる直前までお元気で、自宅で眠りながら安らかに逝けるなんて羨ましいと思わざるを得ない。

 もちろん、家族や大切な人たちにきちんとお別れの挨拶をしてからの方がいいとか、残されたご家族にとっては突然過ぎて心の準備も気持ちの整理もつかないだろうとか、いろいろと思うところはあるが。

 でも自分の老後や人生の締め括り方を想像すると、やはり極力子ども達に迷惑をかけたくないと思うので、いつ何時何があってもいいように、お別れの挨拶は事前に手紙や今どきのエンディングノートに書き記しておいた上でピンピンコロリが最善か。

 ちょうどここ最近、テックスタッフのブログ「BTS(実在のBTSとは全く関係ありません。)」でもエンディングノートや遺産整理のことをテーマに書いてくれているが、参考にしようにも毎回話しが逸れてちっとも話しが進まない笑

 まあ、話しが逸れても毎回何かしら勉強になることを書いてくれているのでいいんだけれど。

 遺産整理といっても、私の場合は子ども達に残してやれる財産もなけりゃ、逆に負の遺産(借金など)もないので、あとは遺品整理で面倒をかけないようにミニマリストのライフスタイルにしておくこと、そして介護で迷惑をかけないように死ぬ直前まで脳も体もピンピンシャキシャキしておくことを目指すべく頑張らねば。

 最近、母を見ていて思うのは、私はもう既に母を亡くしてしまっているのではないかということ。

 確かに母は生きている。

 でも姿かたちや声は私のよく知っている母だが、中身はもう別人だ。

 人格も全く変わってしまったし、私たちのことも誰やらわからない、私たちと過ごした記憶もまるで無い。

 となると、私にとって私の母は既に亡くなったも同然なんじゃないだろうか。

 昔、親が亡くなったらどんなに悲しいのだろうかと想像したことがあるが、目の前に母が存在しているのに、実質亡くなったも同然の状態だと悲しいのか寂しいのか、複雑で自分の気持ちがわからない。

 この先、母が本当に亡くなる時に立ち会えたとしても、こちらからは別れの挨拶や感謝の気持ちを伝えることはできるが、それはこちらの一方的な自己満足で、母には何も伝わらないわけだ。

 寿命が尽きるのはいつかわからないし、どんな状況で亡くなるかもわからないのだから、やはり日頃から大切な人たちへの感謝の気持ちを伝えること、愛情をもって接すること、そして人生の残り時間を充実したものにすること、いずれやって来る最後の日に備えて準備を怠ってはいけないということを母は身を持って私に教えてくれているのかもしれない。

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